カッパドキアの巨大地下都市:その驚異的な規模はいかに築かれ、何のために使われたか?考古学が探る未解明な論点
カッパドキアに広がる地下世界
トルコ中央部、アナトリア高原に位置するカッパドキア地方は、独特の奇岩が林立する景観で知られていますが、その地下にはさらに驚異的な構造物が存在しています。それは、数千年から数百年前にかけて掘削されたとみられる巨大な地下都市群です。特にデリンクユやカイマルクといった遺跡は、地下数十メートル、時には地下百メートル近くまで掘り下げられ、数万人規模の人々が生活できる空間が広がっていたと推定されています。これらの地下都市は、その驚異的な規模と複雑な構造から、古代の技術と社会に関する多くの謎を含んでいます。
考古学が明らかにした地下都市の構造と規模
カッパドキアの地下都市は、硬質の凝灰岩層に掘られており、その構造は驚くほど計画的かつ精緻です。考古学的な調査により、以下のような空間が確認されています。
- 居住区: 広間状の空間や小さな部屋があり、家族単位の居住に使用されたと考えられています。
- 貯蔵庫: 食料や水の貯蔵に使われたとみられる空間が多く見つかっています。
- 台所: 壁に煤が付着した痕跡から、調理が行われた空間が特定されています。
- 家畜小屋: 地下都市の入り口付近には、家畜を収容したとみられる広い空間が見られます。
- 教会・礼拝堂: 特にビザンツ時代に使用されたとみられる教会や礼拝堂も発見されています。
- 墓所: 一部の地下都市からは墓所も確認されています。
- 井戸: 地上やさらに深い地下水源にアクセスするための井戸が掘られています。
- 通気孔: 地上まで伸びる多数の通気孔が複雑なネットワークを形成しており、地下深くまで新鮮な空気を供給していました。
- 防御システム: 特に特徴的なのは、通路を閉鎖するための巨大な円盤状の扉石です。この石は内側からしか動かせない構造になっており、侵入者から内部を守る役割を果たしていました。また、通路には落とし穴や狭い箇所が設けられている場所もあります。
デリンクユ地下都市は、確認されているだけでも地下18層に及び、深さは約85メートルに達するとされています。その内部空間の総面積は不明ですが、最大で2万人から3万人が収容可能だったという推定も存在します。カイマルク地下都市も同様に大規模で、多くの生活空間や貯蔵空間が見つかっています。
未解明な技術と論争点
これらの巨大な地下空間をいかにして掘削し、維持したのかは、現代の考古学においても多くの論争点を含んでいます。
1. 掘削技術の謎
硬い凝灰岩を掘り進むには、相当な労力と技術が必要であったと考えられます。どのような道具が使用されたのか、具体的な掘削方法はどのようなものだったのか、詳細な技術的なプロセスはまだ十分に解明されていません。
- 単純な道具説: 当時利用可能だった青銅器や鉄器、あるいはより硬い石器を用いて、地道に掘削を進めたとする説があります。凝灰岩は比較的加工しやすい岩石であるため、多数の人員と時間をかければ掘削は可能であったという考え方です。
- より高度な技術説: 一部の研究者は、発見されている技術的特徴(例えば、完璧な円形に加工された扉石など)から、単純な手作業だけでは説明できない可能性があると考えています。しかし、これを裏付ける具体的な高度な道具や技術体系の証拠は、現在まで決定的な形で見つかっていません。
2. 換気システムの巧妙さ
地下数十メートル、数百メートルに及ぶ広大な空間に新鮮な空気を供給し続けるためには、極めて効率的な換気システムが必要不可欠です。カッパドキアの地下都市には、地上に開口部を持つ多数の通気孔が掘られており、これが空気循環を可能にしていました。
- 空気力学的な設計: これらの通気孔の配置や深さ、直径などが、自然な空気の流れを利用するために計算されていた可能性が指摘されています。煙突効果や圧力差を利用した巧妙な設計がなされていたとすれば、当時の技術水準としては驚異的です。
- 未解明な計算方法: しかし、具体的にどのような原理に基づき、どのように計算してこれらの通気孔を配置したのか、その設計思想や計算方法はまだ分かっていません。数千年も前の人々が、これほど大規模かつ持続的に機能する換気システムを、どのような知識に基づいて構築したのかは大きな謎です。
3. 築造年代と目的の変遷
カッパドキアの地下都市の築造がいつ始まり、何のために使われたのかについても、複数の説と未解明な点があります。
- 初期の掘削主体: 地下空間の初期的な掘削は、紀元前2千年紀のヒッタイト時代に始まったという説や、紀元前1千年紀のフリュギア人に帰せられる説などがあります。しかし、決定的な考古学的証拠はまだ限られており、初期段階の詳細は不明確です。
- 避難場所としての使用: 最も有力な説の一つは、異民族の侵攻や迫害から逃れるための避難場所として使用されたというものです。特にビザンツ帝国時代には、アラブ人やササン朝ペルシアなどの侵攻が頻繁にあり、長期的な避難を目的として地下都市が拡張されたと考えられています。防御性の高い扉石や食料貯蔵空間の多さは、この説を支持する根拠となります。
- 恒常的な居住地としての可能性: 一方で、広大な居住空間や長期滞在を前提とした施設(教会など)が見られることから、単なる一時的な避難場所ではなく、ある時期には恒常的な居住地としても機能していたのではないかという見解もあります。しかし、地下での長期生活が実際にどの程度行われたのか、その規模や頻度については不明な点が多く残されています。
これらの地下都市が、それぞれの時代においてどのような人々によって、どのような技術を用いて、どのような目的で掘削・利用されたのかは、考古学的調査によって少しずつ明らかになりつつありますが、未解明な論点も数多く存在しています。
今後の展望
カッパドキアの地下都市は、現在もその全体像や詳細な機能が完全に把握されているわけではありません。未発掘の区域も多く、今後の考古学的な調査によって、新たな発見や知見が得られる可能性があります。特に、初期の掘削年代や技術に関する決定的な証拠、あるいは換気システムや水源確保に関する技術的な詳細が明らかになれば、古代アナトリアの人々の技術力や社会構造に対する理解が大きく深まるでしょう。
これらの地下都市は、単なる穴ではなく、古代の人々が厳しい環境や脅威に適応するために生み出した、驚異的な建築技術と社会組織の結晶と言えます。現在進行中の考古学的探求は、その真実の一端を解き明かそうとしています。