ボイニッチ手稿の謎:未解読の写本はいかにして生まれ、何を記しているか?考古学・文献学が探る複数の説
ボイニッチ手稿とは:謎に包まれた写本の概要
ボイニッチ手稿は、ポーランド系アメリカ人の書籍商ウィルフレッド・ヴォイニッチが1912年にイタリアで発見した中世の羊皮紙写本です。この手稿は、未知の文字体系で記された本文と、奇妙な植物、天体図、裸婦像などが描かれた多数の挿絵で構成されています。発見以来、多くの歴史家、言語学者、暗号学者、考古学者、そしてアマチュア研究家たちがその解読に挑んできましたが、現在に至るまでその内容は完全に解明されておらず、「世界で最もミステリアスな本」の一つとされています。
この写本の最大の特徴は、既知のどの言語とも異なる独自の文字で書かれている点です。アルファベットに似た字形が多数含まれていますが、その結合や出現頻度、単語構造は通常の自然言語とは異質に見えます。また、鮮やかな色彩で描かれた挿絵もまた謎を深めています。植物図は実在する多くの植物とは異なり、天体図も既知の天文学的な知識とは一致しない要素を含んでいます。
考古学的・科学的分析による手稿の年代特定と材質
ボイニッチ手稿の出自を探る上で、考古学的な手法、特に科学的分析は重要な手がかりを提供しました。2009年にはアリゾナ大学の研究チームによって、手稿に使用されている羊皮紙の放射性炭素年代測定(C14年代測定)が行われました。その結果、羊皮紙は15世紀初頭、具体的には1404年から1438年の間に製作された可能性が高いことが判明しました。この年代測定は、手稿が中世後期に存在したものであるという確実な証拠であり、ロジャー・ベーコンのようなそれ以前の人物による執筆説などを否定する上で決定的な役割を果たしました。
また、使用されているインクや顔料の分析も試みられています。顔料にはアズライト、赤色黄土、緑青、炭素などが使用されていることが分かっています。これらの材料は当時のヨーロッパで一般的に使用されていたものであり、手稿がヨーロッパのどこかで製作された可能性を示唆しています。ただし、特定の地域や工房を断定できるほどの情報は得られていません。
写本の物理的な特徴(コデクソロジー)も研究対象です。製本方法、羊皮紙の準備、ページの構成などが分析されており、当時の一般的な写本製作技術との比較から、製作環境の手がかりを探る試みが続けられています。
解読を阻む壁と挑戦の歴史
ボイニッチ手稿の解読は、これまで多くの困難に直面してきました。最大の問題は、使用されている文字体系が何を表しているのか全く不明であることです。
過去の解読試みは、主に以下のようなアプローチを取ってきました。
- 換字式暗号説: 既知の言語(ラテン語、ヘブライ語、チェコ語など)を、特定のルールに従ってボイニッチ文字に置き換えた暗号文であるとする説。初期の解読試みで最も多かったアプローチですが、決定的な成功例はありません。
- 転置式暗号説: 文字の順序を並べ替えたものであるとする説。
- 微細暗号説: 文字の形に含まれる微細な違いに意味があるとする説。
- 人工言語説: 意図的に作られた人工的な言語であるとする説。哲学的な人工言語や、特定の目的のために作られた秘密言語などが考えられます。
- 自然言語説: 既知の、あるいは失われた自然言語をそのまま表記したものであるとする説。ただし、文字の頻度や単語構造が通常の自然言語とは異なる点が課題となります。
- 意味のない文字列説(贋作説): 手稿全体が何らかの理由で創作された、意味を持たない文字列であるとする説。
統計的な分析も広く行われています。文字や単語の出現頻度、単語長の分布、隣接する文字のペア(バイグラム)、三つ組(トライグラム)の頻度などが分析され、これらの統計的特徴が特定の言語や暗号と一致するかどうかが検証されてきました。興味深いことに、ボイニッチ文字の単語頻度分布は、多くの自然言語と同様にジップの法則に比較的近い分布を示すという研究結果もあり、これは手稿が何らかの構造を持った情報伝達手段である可能性を示唆しています。しかし、なぜ特定の単語や文字の組み合わせが頻繁に繰り返されるのかなど、奇妙な統計的特徴も多く見られ、これが解読をさらに難しくしています。
起源と目的に関する複数の説と未解明な論点
手稿の解読が進まないため、その起源や目的についても様々な説が提唱されていますが、いずれも決定的な証拠を欠き、論争が続いています。
- 医学書/薬草書説: 植物図のセクションが最も多いため、当時の薬草学や医学に関する内容を記した実用書であるとする説です。しかし、植物図が実在の植物と一致しないものが多く、薬効なども記されていないため、この説にも課題があります。
- 天文書/占星術書説: 天体図や黄道十二宮の図が含まれることから、天文学や占星術に関する内容を記したものであるとする説です。当時の天文学とは異なる図が多く含まれるため、この説も確定的ではありません。
- 生物学/婦人病書説: 生物学セクションに含まれる、連結した管や器官らしきものと共に描かれた裸婦像の図から、解剖学や婦人病に関する内容、あるいは生命の起源や再生といった象徴的な内容を記したものであるとする説です。
- 錬金術書説: 薬草学や天文学といった当時の錬金術と関連の深い知識が含まれることから、錬金術の実践や理論を記したものであるとする説です。
- 宗教/異端思想書説: 奇妙な裸婦像や天体図、理解不能な文字から、当時の正統的なキリスト教から外れた、何らかの異端思想や秘密結社の教義を記したものであるとする説です。
- 詐欺/いたずら説: 手稿全体が、当時の収集家などを欺くために巧妙に作られた贋作であるとする説です。特に中世後期には奇妙な「古代の」文書への関心が高まっていた背景があります。この説の根拠としては、解読不能であること自体が目的だった可能性や、筆跡に一貫性がないといった指摘があります。しかし、これほど長大で複雑な手稿を、当時の技術と時間で、単なる詐欺目的のためだけに製作したとするのは非現実的であるという反論も有力です。また、C14年代測定によって15世紀初頭の製作であることが判明したことで、初期に提唱された近代の贋作説は否定されています。
これらの説は、手稿の各セクションの挿絵や、わずかに見られる統計的な特徴を根拠としていますが、文字内容が不明である以上、決定的な裏付けを得られていません。また、これらの目的や内容が、なぜ通常の文字ではなく独自の文字で記される必要があったのかという点も大きな謎として残されています。
未解明な真実と今後の展望
ボイニッチ手稿は、放射性炭素年代測定によってその製作時期が15世紀初頭であることは明らかになりました。また、インクや顔料の分析から当時のヨーロッパで使用されていた材料が使われていることも分かっています。しかし、誰が、何のために、何を記したのかという最も根幹的な謎は、依然として未解決のままです。
現在も、言語学、統計学、情報科学(特に機械学習や自然言語処理)、美術史、歴史学、宗教学など、様々な分野の研究者がボイニッチ手稿の解明に挑んでいます。高解像度のデジタル画像を用いた詳細な筆跡分析や、AIを用いた文字パターンや単語構造の分析など、新たな技術を用いたアプローチも試みられています。
ボイニッチ手稿の真実は、単なる暗号解読の問題に留まらず、中世ヨーロッパの知的な活動、秘密裏に行われた研究、あるいは当時の人々の宇宙観や生命観といった、歴史の深層を映し出す鏡である可能性も秘めています。考古学的発見と科学技術の進歩、そして様々な分野の知を結集することで、いつの日かこの未解読の扉が開かれることが期待されます。それがどのような「真実」を明らかにするのか、今後の研究の動向が注目されます。